お寺に納めるお金には値段がない
みなさま、お盆休みはどう過ごされたでしょうか?
お盆ということで、ご先祖様にお参りされた方も多いのではないでしょうか。
毎年、この時期、私もお寺でご先祖様にお経をあげてもらっています。
この際、盆供養料をお寺に納めるのですが、案内では写真のとおり金額は決められていません。
なぜ、供養料やお布施などお寺に納めるお金(以下、これらをまとめて「お布施」)には値段がないのでしょうか?
お布施は解毒剤
私たちは普段、物やサービスを調達する場合、お金を払うのが普通です。
これは裏を返せば、お金を払って、それに値する物やサービスを受け取っていると言えます。
(この際、代金を払って入手する物やサービスを、反対給付と言います)
賢い消費者としての私たちは、反対給付として得た物やサービスが、代金に見合っているか、つまり、値段が妥当か、常に注意を払っています。
では、お布施にはなぜ値段がないのか?
私にはこのように思えます。
人はお金を死後の世界に持っていくことはできません。
言い換えると、人は死ぬとき、自分自身への反対給付がないままお金を手放さなければなりません。
これは誰もが知っていることです。
それでも、少しでもお金を多く持ちたい、そして、一度、手に入れたお金は自分の元から離したくないと思うものです。
なぜなら、この世に存在する、多くの物やサービスはお金があれば手にすることができますが、なければ、手にすることができないからです。
お金さえあれば、何でもできるかのように錯覚してしまうのも無理はありません。
お布施は反対給付がない状態でお金を手放すことです。
これによって自分でも気づかないうちに沁みついているお金への執着を解き、もっと大切なものに目を向けるきっかけにできるように思えます。
映画でも同じことが描かれている
映画マトリックスでは、人間は、システムが支配する空想世界に生きています。
人々は、自分が見て感じている世界が、システムが生み出した空想世界であることには気づいていません。
そして、そのシステムを最初に作ったのは、あろうことか人間なのです。
つまり、人間は自分たちが作ったもの(システム)にそれとは気づかずに支配されているのです。
お金は人間が作った社会システムです。
そのシステムが便利であるほど、人はその存在、正当性を疑わなくなり、気づかぬうちに支配される構図は映画と同じです。
生きるためには当然、お金は必要です。
しかし、気づかぬうちに沁みついたお金への執着は、いつのまにか、お金に支配される状況を生んでいるかもしれません。

